あの社長の起業物語

日本を代表する社長たちの起業したきっかけ、理由を紹介しています。

男性

スティーブ・ジョブズ(アップル社 会長(創業者、元CEO))

幼少期
1955年、シリア人の政治学者、アブドゥルファター・ジャンダリとアメリカ人の大学院生ジョアン・シンプソンの間に生まれる。
ジョアンの父が、シリア人であるアブドゥルファターとの結婚を認めなかったため、誕生以前から、養子に出すことに決められていた。
結果、スティーブはポール・ジョブズ、クラリス・ジョブズ夫婦に引き取られることになった。
ジョアン・シンプソンは、ジョブズ夫婦が大学卒でないことを知り、養子縁組を躊躇したが、ジョブズ夫婦が彼を大学に進学させることを約束して、縁組が成立した。
ジョブズが、実の母と再会するのは、彼が30歳を過ぎた頃である。
作家のモナ・シンプソンは、彼にとって実の妹に当たる。

青年期
1968年、ジョブズが13歳のとき、あこがれのヒューレット・パッカード社のビル・ヒューレットの自宅に電話をかける。ビル・ヒューレットはパロアルトに住んでいることを知っており、電話帳で調べてみたところ、パロアルトで、ビル・ヒューレットの名前で掲載されているものはひとつしかなかった。
ジョブズが周波数カウンタの部品をくださいと言うと、部品をくれたばかりか、夏休みにアルバイトをしないかと持ちかけられた。
もらった仕事は、ヒューレット・パッカードの支社で、周波数カウンタをつくっているところだったという。
1971年、高校生になったジョブズは、ヒューレット・パッカードの夏季インターンシップで働いていた時に、スティーブ・ウォズニアック(ウォズ)と出会う。容姿も性格も正反対の2人であったが、すぐに意気投合した。

ある時、ウォズの母親からもらった「エスクァイア」誌1971年10月号に掲載されていたブルー・ボックスと呼ばれる装置を使って、無料で長距離電話をかけるというフリーキング(不正行為)の記事を読んだ2人は、スタンフォード大学の図書館に入り込み、AT&T(ベル社)の技術資料を見つけ出して、自分たちでオリジナルのブルー・ボックスを作り上げた。
2人は、この装置で長距離電話をかけまくったという。
ウォズは、この装置を作ったことで満足したが、ジョブズは、当時ウォズの通っていたカリフォルニア大学バークレー校の寮で、1台100ドルから150ドルで売りさばいていた。
装置自体は1台40ドル程度で、大いにもうかったようだが、そのうち銃で脅されるような状態になり、身の危険すら感じたジョブズは、一切の販売を止めてしまう。

1972年、オレゴン州の「リード大学」へ進学。
大学時代の彼はヒッピー思想・禅・サイケデリックドラッグに心酔し、裸足で校内を歩き、一時は風呂に入らない時期もあったという。
またかなりの音楽ファンであり、ビートルズやグレイトフル・デッドなどを聴きまくっていた。
ジョブズは大学に半年間通ったが、興味のない必修科目を履修することを嫌がり、「両親が一生をかけて貯めた学費を意味のない教育に使うのに罪悪感を感じた」ために中退してしまう。
しかし中退した後もリード大学 (en:Reed College) のキャンパスを放浪し、コーラの空き瓶拾いや心理学科での電子装置修理で日銭を稼ぎながら、哲学やカリグラフィー(西洋書道)など興味のあるクラスだけを聴講するもぐりの学生として過ごし、合計18ヶ月をリード大学に費やした。

アタリとのかかわり
導師を求めてインドまで旅をしたいと考えたジョブズは、旅費を捻出するため働くことを決める。
1974年2月にジョブズは実家に戻り、その日のうちにアタリを訪問、「雇ってくれるまで帰らない」と宣言してアタリのトップであるノーラン・ブッシュネルを引っ張り出す。
ブッシュネルに気に入られたジョブズは、40人目の社員として採用され、時給5ドルのテクニシャン(下級エンジニア)として働くこととなった。
入社後のジョブズは長髪で風呂に入らず、ビルケンシュトックサンダル(または裸足)でうろつく不潔な姿に加え、誰彼かまわず尊大な態度で接したため、夜勤でひとり勤務していたにも拘らず、技術部長のアラン・アルコーンをはじめ同僚の大半から「失礼な奴」と認識される。
 ジョブズはアルコーンに「インドまでの旅費を援助してくれ」と頼み、ミュンヘンでのゲームの修理を旅費込みで申しつけられ、ドイツ経由でインドへ渡ることで旅費を安く済ませる目処を立たせる。
仕事を済ませた後は一度退社し、友人のダン・コトケと共にインドに辿り着くも、すぐに赤下痢にかかって苦しむことになった上、放浪の末に想像と余りにもかけ離れたインドの実態に失望。
結局その年の秋にはロスアルトスに帰り、鈴木俊隆を導師としてサンフランシスコで禅を学び、瞑想やスタンフォード大学の授業聴講などをして自分探しを行った後、1975年初頭にアタリに復職する。

復職後の夏、ブッシュネルから直々に新製品「ブレイクアウト」(ブロックくずし#ブレイクアウト)の回路の部品減らしを命じられ「減らした数だけ報酬が出る」と言われたが、ジョブズは自身ではできないことをすぐ認識した。
ジョブズは、部外者のウォズニアックを毎晩こっそり社内に招き入れ(ブッシュネルはこれを予測していた)、ゲームをしたり勝手に基板を改造していた彼に対してその片手間に作業を頼んだ。
ウォズニアックは、4日間徹夜して部品を20~30個も減らしたが、余りに窮屈で難解な設計は、ウォズニアック自身にしか理解できなかったため、ジョブズは会社からやり直しを命じられる。
その場で取りつくろおうとしたが当然できず、結局は、またしてもウォズニアックに泣きつくことになった。
そしてウォズニアックは、多少部品は増えたものの、誰もがわかる程度に設計の変更を行った。

ジョブズは、報酬の山分けをウォズニアックに提案、アタリから受け取った「700ドル」のうち350ドルを小切手でウォズに渡したが、実際には5000ドルを受け取っており、差額は、オレゴン州の共同農場につぎ込んでいた。1984年頃、ウォズニアックはアルコーンに偶然出会った際、ジョブズによる報酬搾取の事実を知り、ジョブズとウォズニアックとの間にはしばらく確執があった。

ともあれウォズニアックは、後述のApple IやIIを設計する際「ブレイクアウト」の部品減らしが、大変役に立つ勉強だったと語っている。
なお、アルコーンはアタリを退職後、アップルコンピュータにも勤めていた時期がある。
 Apple I は1975年、Altair 8800というコンピュータ・キットが発売され、人気を博していた。
ウォズは、モステクノロジー社の6502ならより安く、しかも、簡易な回路のコンピュータを作ることができると考え、10月から半年間かけて設計。

ホームブリュー・コンピュータ・クラブでデモを行い称賛された。
ウォズは、ヒューレット・パッカードで働いていたことから、「自身の開発した物は上司に見せなければいけない」としてジョブズの反対を押し切り、ヒューレット・パッカードに商品化を持ち掛ける。
しかし、当時のヒューレット・パッカードは、個人でコンピュータを所有する意味が理解できなかったために、ウォズを軽くあしらってしまう。
アタリのアルコーンもほぼ同様の反応で、2人は資金を集め自分達でこのコンピュータを売り出すことを決意する。
ジョブズはワーゲンバスを、ウォズはHPのプログラミング電卓を250ドルで売り払い資金を集めた。
そして、製造したコンピュータをアップル(正確にはApple Computer I)と名付け、1976年6月Apple Iは、666.66ドルの価格で販売が始められた。
ちなみに、ウォズが「アメリカン・ドリーム」(マイケル・モリッツ著)で語っているところによれば、社名選考でジョブズが「アップルというのはどうか?」と、突然言い出したとされる。
それに対してウォズは「2人(ウォズ、ジョブズ)とも音楽好きであったのでビートルズのレコード会社として有名なアップルから思いついたのかもしれない」とのコメントを残している。

アップルコンピュータ設立
ジョブズは、約8,000ドルの利益を手に、多忙で商談ができなかったブッシュネルの紹介で出会ったマイク・マークラに、起業の話を持ちかける。
マークラは、インテルの中級社員だったが、目先の現金が欲しい同僚や友人からストックオプションの株をコツコツと買い集め、インテルの株式公開時には、巨額の富を手に入れていた。
そして、紹介されたジョブズらの話に興味を持った彼は、1976年11月に、アップルに加わり、自身の個人資産の92,000ドルを投資し、1977年1月3日、3人はアップルコンピュータを法人化した。
株式は、ジョブズ、ウォズ、マークラで3割ずつ持ち合うこととなった。
 1977年5月、ナショナル・セミコンダクターから引き抜いたマイク・スコットが、4番目の社員となる。
ウォズは、アップルに注力するために、ヒューレット・パッカードを退社し、Apple Iの再設計を開始した。
処理能力向上とディスプレー表示のカラー化、拡張スロット、内蔵キーボード、データ記録用カセットレコーダをもつApple IIをほとんど独力で開発。
1977年6月5日、1,298ドルで発売されたApple IIは爆発的人気を呼び、1980年には10万台、1984年には200万台を超える売り上げで、莫大な利益をアップルにもたらした。1980年、アップルはIPO(株式公開)を果たし、750万株を持っていたジョブズは、2億ドルを超える資産を手にした。
 LisaとMacintosh 1981年、IBMがIBM PCを発売し、パーソナルコンピュータ市場へ参入した。次第に、Apple IIはシェアを奪われてゆき、新しい製品が待望されるようになった。

1978年、Apple IIを打ち破る次世代パーソナルコンピュータとして、Lisa(リサ)・プロジェクトが立ち上げられた。リサという名前は、ジョブズが当時付き合っていた女性との間にできた子供の名前(リサ・ブレナン・ジョブズ:後に実子として認知。ハーバード大学卒業後、執筆家として活動)から付けた。
1979年、ゼロックスからの出資を受け入れる交換条件として、ジョブズの要請により当時ゼロックス管轄の研究所であったパロアルト研究所見学が行われた。
その際、ビットマップディスプレイとマウスを前提とする「Alto」で、GUIを実現した「暫定Dynabook環境」(開発者のアラン・ケイらは、SmalltalkをOSとして動作するAltoをこう呼称した)のデモに大きな衝撃を受けたジョブズは、開発中のLisaに、これと同じ機能を持たせることを考え、自らプロジェクトを率いて行くこととなった。
1979年、アップルに入社したジェフ・ラスキンは、Apple IIが一般の人々には複雑すぎると考えていた1人だった。
彼は、カリフォルニア大学サンディエゴ校での教え子であったビル・アトキンソンを雇い、Apple IIのメンテナンス担当だったビュレル・スミスなど数人で、1979年、Macintoshプロジェクトを開始する。
このMacintoshは、誰にでも簡単に扱える、ノート代わりのコンピュータを目指していた。
一方ジョブズは、会社内での独断専行の立ち居振舞いから、社長のスコットによって、Lisaプロジェクトのメンバーから外されてしまう。
行き場が無くなったジョブズは、1981年、突如としてMacintoshプロジェクトに参画を宣言する。
殴り込みを掛けるかのような突然の展開ではあったが、数人で動いていたMacintoshプロジェクトは、ジョブズを迎え入れた。

そして、ハード担当がジョブズ、ソフト担当がラスキンとなり、取締役だったジョブズの働きで、予算も開発メンバーも増え、同時にLisaプロジェクトからも次々とスタッフの引き抜きを行った。
しかし、Lisaを上回るものにしようとするジョブズが、ソフト(オペレーティングシステム)に関しても口を出し始めたために、ラスキンと対立してしまう。
ことごとく対立を繰り返した揚げ句、ラスキンは役員に対して「ジョブズの首を取るか、自分を新たな場に移すか」と直談判するが、最終的に役員サイドは、Macintoshプロジェクトにジョブズを押し込めておく方が、会社にとって悪影響が少ないと考え、ジョブズの考えを優先してしまう。
そして1982年3月、ラスキンはアップルを去っていった。 ジョブズは、Macintoshにはシンプルな美しさが必要だと考え、基板パターンが美しくないという理由で、設計案を幾度となく却下した。

また、同じく美しくないという理由で、拡張スロットの採用を拒否したり、みすぼらしいフロッピードライブのイジェクトボタンをなくさせ、オートイジェクトを導入させることも行わせた。筐体は、机上の電話の横に置かれる電話帳程の大きさが理想だとし、30cm四方のサイズに収まるように提案。
初代Macintoshの筐体デザインは、よくドイツのフロッグデザインと誤解されるが、実際は、ジェリー・マノック(米アップル社員)によってデザインされたものである。

以上のように、手間を惜しまなかったがゆえに開発は難航し、Macintoshがデビューしたのは1984年1月のことだった。 アップルコンピュータ解任とNeXT社設立 [編集]ジョブズとの対立が悪化していたスコットが、1981年、マークラによって解雇されてしまう。ジョブズは、スコットの後任として、マーケティングに優れた人物を連れてくる必要に迫られ、ペプシコーラの事業担当社長をしていたジョン・スカリーに白羽の矢を立て、引き抜き工作を行った。この時、スカリーを口説くために「このまま一生砂糖水を売りつづけたいか? それとも世界を変えたいか?」(Do you want to sell sugar water for the rest of your life, or do you want to change the world?)と言ったのだった。

そして、熱烈なジョブズのラブコールもあり、1983年、ジョン・スカリーがアップルの社長の座に就いた。
当時は、ジョブズとスカリーは強力なパートナーシップのためにDynamic Duoと呼ばれ、アップルの経営を押し進めた。
1984年後半、ジョブズは、Macintoshの需要予測を大幅に誤り、アップルは、Macintoshの過剰在庫に悩まされた揚げ句に、初めての赤字を計上してしまう。そしてアップルは、従業員の1/5にあたる人数のレイオフ(人員削減)を余儀なくされた。
アップルの経営を混乱させているのはジョブズだと考えるようになったスカリーは、Macintosh部門からジョブズを解任することを取締役会に要求する。
それを察知したジョブズは、スカリーの中国出張中にアップルからの追放を画策するが、アップル・フランスで功績を上げていたジャン=ルイ・ガセーの密告により、スカリーはジョブズが自分をアップルから追い出そうとしていることを知る。

その後、スカリーは、1985年5月24日の取締役会で、ジョブズに画策について問いただした。
この結果、ジョブズは会長職以外、アップルでのすべての仕事を剥奪される。 アップルでの仕事がなくなったジョブズは、新たなプロジェクトすら立ち上げられない状況にとどまることに絶望してしまう。
そしてジョブズは、理想のコンピュータ像を求めて大学を歩いて回った際に、スタンフォード大学でノーベル賞受賞者の生物学者ポール・バーグと昼食を取ることとなった。
その時に、DNA組み替え実験の難しさの話題が上った。ジョブズは、バーグへコンピュータでのシミュレーションを提案し、同時に、高等教育のためのコンピュータという構想を膨らませた。
同年9月12日、その構想を実現すべく、ジョブズは、新しい会社NeXTを立ち上げるために、正式にスカリー宛てに辞表を送付した。
また、決算報告を受け取るための1株だけを除いて、当時所有していたアップルの株、約650万株をすべて売却した。 当初、ジョブズは700万ドルをNeXTに投資し、1987年までには新しい製品が投入できるともくろんでいたが、実際に、NeXTの製品 (NeXTcube) を発表できたのは1988年秋で、最終版の出荷は、1989年になってのことだった。

ジョブズはそれでも「5年は先取りしている」と語ったが(結果的にはMac OS Xの12年の先取り)、NeXTのロゴデザイン(ポール・ランドに依頼)に10万ドルを投じたり、OS (NEXTSTEP) の凝った仕様を開発するべく膨大な時間をかけたり、NeXTcubeの筐体デザインをフロッグデザインに依頼するなど、NeXTはあっという間に資金を食いつぶしていく。1987年にはゼネラル・モーターズで成功していたロス・ペローから2000万ドルの出資を、1989年には、キヤノンから1億ドルの出資を引き出した。

発表当初から、NeXTの評価は高かったが、ジョブズが強硬に主張した、フロッピードライブの代わりにキヤノン製の独自の光磁気ドライブ(5インチMOドライブ)を採用したことや、加工の難しいマグネシウム合金の筐体を使うことなどによって生産コストが高くつき、また、モトローラからのマイクロプロセッサ (MC68030) 供給が遅れるなどにより、思うように販売が伸びなかった。
そして、サン・マイクロシステムズなどのワークステーション並みに高価な価格だったこと、その他のハードウェアと直接的に接続することができないなどの理由で、1992年にIBM互換機で動作するNEXTSTEPのPCバージョンを発表する。1993年2月10日には全社員530人のうち280人をレイオフし、ハードウェア部門をキヤノンに売却(FirePowerSystemsを設立)してソフトウェア会社と転じることとなる(社名も、NeXTソフトウェアへと変更される)。 NeXTcubeは、開発と運用のしやすさから、世界初のウェブサーバとして用いられたという大きな功績も残している。

また、WebObjectsは、世界初のウェブアプリケーションサーバ開発運用環境となった。NEXTSTEPとその開発機能は、ウェブサーバなどを比較的簡単に開発構築・運用できる利便さを兼ね備えてものであり、今日のMac OS Xにも受け継がれている。
 ピクサーNeXT社の仕事の一方で、ジョブズは、1986年2月7日に、ルーカスフィルムのコンピュータ関連部門を1000万ドルで買収し、CEOの座に就いた。
ピクサーの主要商品は、レンダーマンというシリコングラフィックスのIRIX上で動くレンダリングソフトであり、約10万本のセールスを記録し『ジュラシックパーク』のコンピュータグラフィックス制作でも使われた。
ジョブズは、ピクサーに対してあまり口出ししなかったが、手っ取り早く利益があげられるコンテンツ作成を、ピクサー社のメンバーに提案した。

1991年、ピクサーは、ディズニーにCGアニメーション映画作成の売り込みを行い、同年3月3日に3本の劇場用作品の契約を結んだ。
この結果、4年の歳月と、70台のSGIワークステーション、117台のSUNワークステーションを使った、全編コンピュータ・グラフィックスのアニメ映画『トイ・ストーリー』が、1995年11月22日に封切られた。
公開までの4年間、ジョブズはピクサーに5000万ドルを投資しており、「こんなに金がかかるとは思っていなかった」と告白している。しかし、トイ・ストーリー公開直後に、ピクサーは株式を上場、またもジョブズは多額の資産を手に入れることになった。
 2006年5月5日、ディズニーはピクサーを買収し、同社はディズニーの完全子会社となった。また、ジョブズ自身も、ディズニーの個人筆頭株主(持株率約7%)になると同時に、ディズニーの役員に就任した。

病気との戦い
2003年、膵臓癌と診断されたが、幸いにも治療可能な症例(進行が穏やかである神経内分泌腫瘍と明かしている)であった。家族はじめ周囲はジョブズにすぐに手術をうけるように忠告したがジョブズはこれを頑なに拒否し、絶対菜食、ハリ治療、ハーブ療法、心霊治療などをネットで探し、民間療法などを用いて完治を図ろうとしていたといわれる。
医学的治療は遅れ、そのことから9か月後の検査で癌が大きくなっていることがわかり(この判断を当人は後に相当後悔したという)、ついに観念してごく親しい人以外には秘密にして、同年の8月に摘出手術を受け療養後復帰した。
2005年6月12日、スタンフォード大学の卒業式に招かれ、「Stay hungry, stay foolish」という『全地球カタログ』最終号からの引用[14]で締めくくられたそのスピーチは多くの共感を持って迎えられた。

 2008年6月9日、第二世代iPhone(3G)発表時に痩せた姿で登場し、ジョブズの健康問題がマスメディアで取りざたされたが、同年9月10日の第四世代iPod nano発表時に健康面に触れ、「自分の死亡説を流すのはやりすぎだ」と、健康不安についての臆測を一掃した。

しかし実際には2008年に肝臓への癌の転移が判明していて容態は深刻な状況であった。
同年12月16日に、アップルがMacworldでの基調講演を行わないとの発表を行ったことで不安は再燃し、2009年1月6日に、あらためて「体重減少はホルモン異常のため」との書簡を発表し、重病説や辞任説を否定し「アップルのCEOとしての義務遂行が継続できなくなったら、最初に取締役会に話す」と宣言したが、1月14日に「6月末まで治療に専念」するためのCEO休職を発表した。

6月23日の公式発表によると、Methodist Le Bonheur Healthcareにて、重度の肝疾患のために移植待機リストで最高ランクの位置づけを受け、肝移植されていたこと、良好に回復しているということであった。
しかし実際には2009年3月に肝臓の移植手術を受けていて、医師からはジョブズの肝臓は4月までもたないと宣告されていたという。なお、内分泌腫瘍の治療の一環で肝移植が行われること自体は選択肢の一つである(インスリノーマの項参照)が、有効性は議論の余地がある状況という。
 CEO退任 [編集]肝臓移植後、一旦体調は回復し、2010年5月にはお忍びで京都に家族旅行に出かけるなどしていたが、2010年11月以降再び体調が悪化。2011年に入り癌が再発。

2011年1月18日、公式発表で病気を理由に休職することが発表された。日常業務は前回同様ティム・クックCOO(最高執行責任者)に任せるが、CEOにはとどまり、大きな戦略的決定には関与するとした。
癌細胞と正常な細胞の遺伝子配列を調べたり、分子標的治療などの最新の治療をうけるなどしたものの癌の進行を食い止めることはできず、癌は骨などの全身に転移し、手の施しようのない状況であった。

2011年8月24日、2009年の宣言のとおり「CEOとしての職務が継続できなくなったら話すと言っていたが、残念ながらその日が来てしまった」として、取締役会に辞表を提出してCEOを辞任、後任にティム・クックを推挙し、ジョブズの意向通りにクックが後継に就任した。同時に取締役会の承認を受けて会長職へ就いた。
ジョブズがCEOを退任する8月には、アップルは時価総額でエクソンモービルを抜き、世界最大の企業となっていた。すでにこの時ジョブズは自力では歩くことができず、車イスで取締役会に駆けつけた。
そしてティム・クックら幹部社員を部屋から退出させた上で、社外取締役に対し上記の内容のメッセージを読み上げた。この時社外取締役の一人は涙を流していたという。

 死去
2011年10月5日、膵臓腫瘍の転移による呼吸停止により妻や親族に看取られながらパロアルトの自宅で死去。 56歳没。
正確な死亡時刻はアップルからは公表されなかった(クックが当日に従業員宛てで送ったメールによると、「earlier today(今日早くに)」であったという)が、当局の死亡証明書を取得したロイターやCNN等により現地時間(PDT)5日15時頃(日本時間の6日7時頃)と判明した。
遺体は7日にパロアルトの無宗派墓地に埋葬された。
 死去前日(10月4日)の午前中にiPhone 4Sの正式発表が行われていて、かろうじてその発表を見届けてからの死去となった。長年ライバル関係であったが30年来の良き友人でもあったビル・ゲイツを始めとする世界中の業界関係者からその死を惜しむ声が相次ぎ、バラク・オバマアメリカ合衆国大統領も弔意を表明した。

柳井 正(ファーストリテイリング代表取締役会長兼社長)

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父(柳井等)はファーストリテイリングの前身「小郡商事」を山口県
柳井正本人は山口県宇部市中央町生まれ。
早稲田大学政治経済学部を卒業後、父親の勧めでジャスコ(現在のイオンリテール)に入社。
ジャスコ四日市店で家庭雑貨売場を担当したが、働くのが嫌になり9ヶ月で退職、半年程友人の家に居候した後帰省して実家の小郡商事に入社。

当時小郡商事が展開していた店舗「メンズショップOS」で取り扱っていたのは紳士服などの男性向け衣料が中心であったが、12年経営に携わる間、洋服の青山やアオキなどの郊外型紳士服店が業績を拡大したため、後発を避け安価で、日常的なカジュアル衣料の販売店を着想し全国展開を目指した。

宇部市に創業した人物。
1984年(昭和59年)まで代表取締役社長を務め、1999年(平成11年)2月に80歳で死去。遺産総額は、当時の税務署公示によると27億1,500万円。

根っからの異端児だった柳井は、高校時代のあだ名は「山川」。
人が山と言えば、自分は川。
人と同じことはしない。
実家の家業を継いだ後も、親の言うことには耳も貸さず、ただ自分の目だけを信じた。
香港で出会ったSPA(製造小売業)。世界を見渡せば、年商数千億のカジュアルチェーンは全てSPA。

「だったら日本のチェーン店がやっていることは全部間違っている」。
そう考えて、日本でSPAの巨大チェーンを築くことを決意する。

1984年(昭和59年)、父の後を受け小郡商事社長に就任。
「ユニークな衣料 (clothes) 」ということで「ユニーク・クロージング・ウエアハウス(Unique Clothing Warehouse、略称ユニ・クロ)」と銘打って同年6月、まず広島市にその第一号店を開店。
その後中国地方を中心に店舗を拡大していく。


カジュアルに拘った理由は紳士服(スーツ)のように接客を必要としない、物が良ければ売れるという点が自身の性に合ったためという。

ユニクロの路線が、徐々に陽の目を見るようになった1991年(平成3年)、社名を「ファーストリテイリング」に変更。

2002年(平成14年)、代表取締役会長兼最高経営責任者(CEO)に就任。
いったん社長を退くも、2005年(平成17年)には再び社長に復帰。同年、持株会社制への移行を受けて、グループ各社の会長職を兼務している。


現在は東京都渋谷区大山町在住。二男の父。


柳井正の書籍

貞廣 一鑑(株式会社ラヴ(現:Jellyfish.株式会社)代表取締役CEO)

父親が自衛官であったために厳しく育てられたが、それがあまりにも理不尽すぎたために嫌気がさして家出する。
その後、クラブサウンドと出会いカリスマDJとして活躍。
20歳の頃に実業家から一億円を借り入れディスコ「XISA CLUB」をオープンさせる離れ業の偉業を成し遂げる。その後、マハラジャ広島店の店長をしていたが、逃げた友人が作った借金4000万円を背負う。
しかし、斬新でスタイリッシュなカフェやレストランを次々と展開し完済する。
2000年
に東京進出を果たし、大阪、京都にも展開する。

厳しい教育に対するアンチテーゼが強く、番組では「脱・体育会系を目指している」と公言している。規制やマニュアルに縛られることも嫌い、独自の路線で新しいスタイルを貫いている。


テレビ番組『マネーの虎』で最初に出演した頃は、発言が少なく存在感の薄さは否めなかった。

しかし、ハンドメイド家具店を開店希望する志願者が、借金について虚の発言で謝罪したとき、「僕の目的は、(借金なんて)どうでもいいんですよ。
あなたが成功してくれる事が、僕にとっての成功であるし…やろうよ」と、優しく語ったことが視聴者の好感を得る。
その後、怒りをあらわにする社長が多い中で、志願者にクールで歯切れのいい発言で、一躍レギュラークラスの虎になった。

堀之内九一郎社長や小林敬社長などの厳しい社長と、激しく対立することが多かった。
特に、芸能事務所志願者の回では、収録後も大モメになるほどの事態に発展した。
また、タイの麺料理・カオソーイの屋台志願者に対して試食を拒否したり、わざわざトランスレーベルの志願者のために、吉田栄作をイギリスに行かせるなど大胆な行動も目立った。

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堀之内 九一郎(生活倉庫 代表取締役)

1947年鹿児島県鹿屋市生まれの58歳、団塊の世代ど真ん中の人である。父親の死後、家業を継ぐも廃業、新しい事業を展開するが起業と倒産を繰り返し、ホームレス生活を送ることとなる。

東京を目指す途中の静岡県浜松市で資金が尽き、食べるためにゴミ拾いをはじめる。そしてゴミの中から拾ってきたボロボロのストーブを修理して、彩色を施して、新品同様にして売り出し生計をたてる。

これがお客さんにたいへん好評なため、それに気を良くし冷蔵庫、洗濯機の修理を加えた三点セットで販売した。それがたいそう売れ、1988年には生活創庫を設立。15坪の倉庫で月商が350万円にもなったそうだ。

1992年には株式会社に組織変更。現在はフランチャイズ200店舗以上をもつ総合リサイクルショップに成長し、関連会社を含めた年商は102億円に上る。

人間どん底から這い上がるには、気づきや閃きといったものが大きく作用する。堀之内氏もストーブの修理をしながら気づいたのである。過去は失敗だらけで先も見えない、このままではホームレス以下じゃないかと。そして今までの事業の反省や、他にもっと儲かる種はないかと考えた。

そしてこの時のホームレスの言葉に人生が変わったそうだ。“金儲けの話しか出てこないあんたに商売などできっこないよ。人は金を儲けるために商売するんじゃない。商売とは自分が楽しいと思ったことに夢をかけるから頑張れるのだ!”といった内容である。

お金儲けを第1に考えていた堀之内氏であったが、この時から夢を持って楽しめる仕事を考えるようになった。人生の岐路である。そして生まれたのが今の生活倉庫である。

負債1億円のどん底生活から成功してきただけに、堀之内氏の発言は、ひとつひとつの言葉に力がみなぎる。

『お金は道具であり、その使い道が重要だ。損して得取る行動が必要。一つの目標達成には他は全て犠牲にしても集中してやる』まさに激変の時代を生き抜いてきた団塊世代の強さの秘密を垣間見ることができる言葉である。

彼はさらに言う『そして、成果が出るかどうかは真の欲求をもてるかであり、人間の能力にたいした差はない。本当の欲求を持つと人間はすごい能力が出せる』。真の力は、時代という背景の元、さらに上へという、強い要求を持ち続けたその強さにあるのかもしれない。


また、マネーの虎では、NO.1の出演回数と厳しさを誇った。
30種類以上の業種を経験してきたことがあり、どのジャンルにも精通。
志願者に一つでもマイナス部分があると、それを徹底的に問い詰め、恐ろしいほどの完璧さを要求した。そのため出資したのはわずか3回。

しかも、あまりにも厳しすぎるためにほかの社長と対立することが多く、これがきっかけでほかの社長とマネー成立になったケースが続出した。

これを嫌ったのか「社長同士の対立について規制しないと番組を降板する」と吉田栄作やスタッフに要求したことも。
他の社長との共同出資をあまり好まず、志願者に誰に投資して欲しいか選ばせることもあった。

一方、夢やロマンに関しては人一倍熱い。
パソコン救急車開業の志願者に対して激しく批判したが、他の社長によってマネーが成立した後に「あなたの夢を達成することが裏切らないことなんだ」という優しい言葉を投げかけた。

手造りの木製家具店を経営したいという志願者の人間性に惚れ込み、プレゼン開始すぐに「私が全部出す」と言った事がある。
志願者は数億円の借金がある事を打ち明けたが「借金があったっていいじゃない、借金があるなら返せばいい」と発言した。
しかし、その志願者には投資を希望する虎が複数でたので、志願者が虎を1人選ぶことになり、堀之内は選ばれず投資にはいたっていないため、出資回数が少なく思われがちである。

マネーの虎収録後、吉田栄作が「なぜいつもお金を出さないのですか?」と聞き、半生を語った事がある。番組ではその波乱万丈な半生を、再現ドラマとして特別編成にしたこともある。

マネーの虎において、高学歴な志願者の人間性や無知にはひときわ厳しかった。


2010年6月、週刊誌FLASHに登場し現在は事業のアメリカ進出を画策していると述べた。63歳という年齢にも関わらず「ビジネスの本場アメリカでアメリカンドリームを手にしなきゃね」という大きな志を持って突き進んでいるという。
ちなみに愛車は2000万円のマセラティ。

堀之内九一郎の書籍

高橋がなり(ソフト・オン・デマンド(SOD)元代表取締役)

神奈川県立横浜立野高等学校を卒業後、大学受験に2度失敗。貿易関係の専門学校を経て佐川急便へ就職。その後、テレビ番組制作会社IVSテレビ制作へ転職。

IVSの先輩ディレクターであり、現在テレビタレントとしても活躍するテリー伊藤とは師弟関係にある。

自らが番組を制作しても制作会社という立場上、著作権はテレビ局のものになってしまう放送業界の仕組みから、自分で著作権を持つ作品を作り「いいもの作れば大儲けで、失敗をすれば大損する」という単純な商売をしたいと思い、テリー伊藤の指示に従って、アダルトビデオ業界へ参入した(テリーがオーナーとなってアダルトビデオ会社を設立した)。


愛弟子の一人に、現在SODの取締役社長を務める菅原千恵がいる。


アダルトビデオ業界を選んだのは、映像ビジネスの世界でまずメーカーとして独立し、自分が権利を持つ作品で制作と販売の両方をできるという分野が、当時まだ新しくできたばかりのアダルトビデオ業界しかなかったからである。
自らは「本当はアダルトビデオは好きじゃない」と発言している。
アダルトビデオで成功を収めると、一般向けのアニメ作品や映画の自社製作を手掛けたが、まったく売れなかった。

2003年の「マネーの虎」内で「もうすぐ会社をやめて、小さなことをやりたいと思っている」と話し、その後2005年には自身のブログにて「農業を始めたい」と告白。
SODの代表取締役を辞任し、以降メディアから姿を消した。

2004年12月に公開されたあゝ!一軒家プロレスを製作した理由は「民放テレビ局にSODのロゴが入ったテレビCMを打ちたかったから。最終的に4億円以上も映画に費やしてしまった」とコメントしている。

高橋がなりの書籍

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